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山田龍真について

山田 龍真(やまだ りゅうしん)

求菩堤山修験道根本道場奥之院座主 大行満

プロフィール

1941年大阪府布施市(現・東大阪市)生まれ。
1960年、19歳で父親の経営する鮮魚店を継ぎ、店舗拡大、結婚、3人の子宝に恵まれながら順風満帆な人生を送る。
27歳の時、全身に激痛を伴う原因不明の病に倒れ、やむなく店舗と住居を捨て福岡県行橋市に移住。
その地で生涯の師・丸塚法現と出会い、亡母の供養を行ったところ、一晩で病が完治する奇跡を体験。
この一件をきっかけに30歳で出家得度。教学を8年間学び、39歳で伝法灌頂を受け阿闍梨となる。
1980年より求菩提山で修験道の修業を開始。1986年、千日行を満行し、116年ぶり史上18人目の大行満位となる。


千日行満行之碑

行歴

1971年(昭46) 真言宗において出家得度
1976年(昭51) 伝法灌頂を受け阿闍梨となる
1980年(昭55) 求菩提山頂7日間断食般若心経一万巻転読
龍門岳不動窟7日間断食般若心経一万巻転読
1981年(昭56) 求菩提山中禊場4日間断食、厳寒滝行
龍王院道場21日間焼八千枚落叉護摩供
1982年(昭57) 求菩提山7合目七日間即身成仏行(土中行)
1983年(昭58) 求菩提山5合目十日間即身成仏行(土中行)
常行堂21日間焼十万枚護摩供 千日回峰行入山
1986年(昭61) 千日行満行。一千座焼百万枚護摩供
常行堂千日間、結願焼十万枚護摩供
1987年(昭62) 龍門岳百日山籠り入山
百日山籠り満行。般若心経五万巻転読
1988年(昭63) 龍王院本堂十日間焼十万枚護摩供
1989年(平元) 龍王院本堂百日間焼百万枚護摩供
1990年(平2) 求菩提山6合目七日間即身成仏行(土中行)
1991年(平3) 常行堂十日間焼十万枚護摩供
1992年(平4) 龍王院本堂十日間焼十万枚護摩供
1993年(平5) 畢(おわんぬ=修行を終えたという意)合掌

著書

霊を視る – 愛と哀しみの縁


われ、かく荒行せり 人は生きたまま死ねるか


大行満・山田龍真の霊魂の不思議な世界


だって、生きてるんだもんね


ビジネスに効く修験道


千日回峰行について

比叡山の千日回峰行は高名であるが、求菩提山にも千日行が伝わっていた。その違いは、比叡山は年に百日ないし百五十日の行をおこないながら七年かけて千日を達成するが、求菩提では千日をぶっ続けでおこなう。

 千日の間、毎日山頂の国玉神社の権現に華と水を供え、真夜中に山中三十一ヵ所の礼拝所を巡拝。一定の場所に籠もり、何があっても山から出ることは許されない。
 その過酷さゆえ、頼厳上人が始めて七百年以上の歴史で年に一人ずつ行に入ったが、頼厳上人から明治の林光坊までの間に満願を迎えた者は十七人しかいないという。
 山田は古くから伝わる掟に、一日千枚の護摩修法と、昔の巡拝より八キロ長く歩くことを加えて行に挑んだ。

 ここでも試練の連続であった。山は容赦なく試してくる。いわゆる「行試し」である。
 九十八日目。深い雪の中、石段を数十段にわたり滑落。脚が動かなくなるほどの激痛。
 翌日も腫れが引かない。雪の階段を仰向けになって這いつくばって昇り降りするのがやっと。それでも毎日回峰せねばならない。護摩を千枚焚かねばならない。しかし、もう力尽きてしまった。携えた短刀を抜き、自ら死を選ぼうとしたその瞬間、「まだ百日目だろうが!」と、どこからか声がした。
 ハッと我に返る。そして一旦リタイアして最初から行をやり直そうと決めた。心が落ち着き体の力が抜けて、眠りについた。
 翌日、不思議なことに、一夜にして腫れが引き、痛みもなく歩けるようになっていた。
 求菩提山が受け入れてくれたのだろうか。そこからまた千日行は続いていった。
 九百日目あたりに起きたある騒動のために精神的に疲れることもあったが、一気に最終日まで進むことができた。

 最終日、午前零時から最後の結願(けちがん)護摩が始まった。
 そして最後の巡拝。延べ一万五千キロにおよぶ深夜の巡拝が終わる。
 締めくくりとして結願作法、そして結願式が、天台宗、真言宗から七十人の行者が参列して盛大に行われた。
 こうして求菩提修験者として百十六年ぶり、十八人目の大行満が誕生したのである。

 ――『ビジネスに効く修験道』(今日の話題社)より